あなたの言葉がわからない Ich verstehe Sie nichtあなたの言葉がわからない Ich verstehe Sie nicht
Alltag von eine Cembalistini
ドイツ語と日本語で綴る チェンバリストのブログ
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ヨーロッパに来たらいつかは行ってみようと思っていたアウシュヴィッツ強制収容所。Kちゃんと一緒に(一緒じゃなかったら行く勇気が無かった)行ってきました。
クラコフからはバスで行くと一本なんやけどバス停を探すのに一苦労。クラコフ駅の何処にもバスの表示が無い。人に聞くも真直ぐ行って右、というばかり。どこにもバスのマークなんてかいちゃいない。タクシーは書いてあるのに・・・でも、駅のチケット売りのお姉ちゃんに『バス!!』と大きな声で行って指で左右を差して聞いたらやっぱり右方向。進むとドア。外にでると坂道があった。とりあえず登ると横にバスターミナル出現。予定していたバスに間に合うかどうか、というところだったので走ったけど見送ってしまった。バスターミナルは新しく作られたのか立体型。地下と地上階があって、クラコフ駅発のバスの便はかなり多い。ちなみにアウシュヴィッツ行きバスは地下。次に行くヴェリチカという塩の炭鉱行きバスもある。バスといってもワゴンほどの車に座席がいくつかついてるの。運転手の叔父さんに往復チケットを買うか聞かれる。買ってもどうせ18Zt
11時半頃に到着して団体観光客さんと一緒に中に入る。どーせ英語も解かんないんだから日本語の案内書を買って中に入る。主に中は英語、ポーランド語、そして他の言語(ヘブライ語か?)で説明がされていた。
死の門と言われる“Arbeit macht frei”の文字が掲げられた収容所への入り口。意味:働けば自由になる。
さてはて、アウシュビッツ記事は長くなること必須なので飛ばして見てくださっても構いません。そして、ドイツ語で書く気力もありません。もードイツ人は嫌っていうほど授業でやるだろーし。
アウシュヴィッツ収容所に何故興味を持ってたのか・・・それはおそらく小学生の頃に読んだ“実際にあった恐い話”系の書物から。それには収容所に到着してからの“選別”の模様が書き綴られていて、強烈な印象を受けた・・・んだと思う。それからいろんな本を読んで第二次大戦のことを調べるようになった。アンネの日記は実は読んだことが無いし、読んだ本全部をはっきり覚えてるわけでもないし、その本が正しいこと書いてるともわかんない。学者やないんではっきり自分の言葉でこれはこうだった、ナチスはこんなことをしたとは言えない。ましてやその時代に生きていない自分がこんなことを書いてどうなる、って思うけど、知ってることを書きたいので、知ったかぶりかもしれないけど知識をひけらかすのを勘弁してほしい。
有刺鉄線に高圧電流を流していたので、これに飛びついて自殺する人もいた。この赤レンガの建物がいっぱいあって、その内6つだけはソ連軍の攻撃を免れて残った。
3月でまだ観光シーズンでもないからか広大な敷地に人気のなくなるところがあった。そうなると皆どこに行ったの!?と不安になり、恐くなり、ついブラックユーモアを口にしてしまう。(場所が場所なだけにおふざけがすぎてごめんなさい)
アウシュヴィッツには音楽隊が組織されていたって知ってますか。ヨーロッパ的な考えだ。音楽こんなところまで必要になってくるとは。毎日外へ労働しにいく強制労働者達の送り迎え時に演奏したり、SS隊員達の為に囚人達で組織された音楽隊が演奏をした。音楽隊に入れた者は待遇が他の囚人に比べて良かった。芸はどんな時に身を助けるかわかったものじゃない。
イスラエルからの(学生と思われる)集団。修学旅行なんかで訪れる、日本の広島長崎のような目的なんだろう。
ユダヤ人の国・・・本当に皆から認められ、平和的に建国される日が来るんだろうか。シオニズムかかげてイスラエルへ行ったユダヤ人達は戦中も戦後も(今も)自分達の国があったらこんな目には合わずにすんだのに、なんて考えた。こっちは日本。ヨーロッパ、というか大陸じゃない。他の国に行ってたとしても、あたしなんか故郷は日本です、って言える。日本へ帰ったら日本語もあるし日本憲法の下で人間らしい生活をおくれる。それって、うん、すごく安心できることなんやな。
ここで多くの人が銃殺された。左の写真は11番ブロック『死のブロック』と呼ばれる収容所内の刑務所のようなところ。地下に牢屋がある。
所長とか偉いさんの部屋があったけど、彼等は立派なベットで寝てた。それがものすごく許せない。心地よいベットで安眠を得られる喜びといったら、ないじゃない?
二枚の写真やけど何故か素晴らしく繋がった・・・
収容所内ではしょっちゅう点呼が行われていた。点呼の時、大きな声で言えなかったり、少し動いただけでぶったたかれたり、夜中に起こされてくだらない点呼(読んだ本のほとんどにこの“くだらない”という表現が使われていた)をさせられたり、この点呼は囚人を取り締まる目的と、罰を与えるという目的を持っていた。体育の授業とかの点呼中にそんなことをよく考えていた。
有刺鉄線。ドイツ語の看板は当時のもの。館内表示にドイツ語は一切無いけど、展示物の多くはドイツ語で書かれているので、それを読めるくらいドイツ語力があってよかったな、って思った。偽造パスポートや、当時の身分証名書。背丈、目の色、髪の色、両親が何人であるか。今でもビザを発行してもらうのにこれらはいるけど、黒目黒髪のアジア人にとっては何かとっつきにくものがある。あ、日本人は黒目ぢゃなくて赤褐色が普通なんだと。いつも黒目って書いてた私・・・大丈夫かな?
ガス室。と焼却炉。焼却炉へはトロッコ(列車)のレールが中にまでひいてあって、選別されて死を宣告された弱いお年寄りや子供達が送られた。1日に350人の死体も焼かれていた。この焼却炉の前で元収容所所長のルドルフ・ヘスの死刑が執行された。
もう一つあるビルケナウという収容所に行こうか、と思ったけど、運よくバスが来て、しかも寒かったからクラコフに戻りました。
見学できてよかったか、と聞かれれば、うん、と応えるけど、ハイシーズンでもないのに、狭いバラックの展示内のあちらこちらでガイド連れ団体が喋り、一般見学者は身動きも取れない状況・・・これは困った。
アウシュビッツについてはまだ判明していないことが多い。行方不明者や死者の数、本当にガス室で大量虐殺があったのか否か(←知ってた?この問題、ドイツじゃタブーで法にもかかるヤバイもんなんやで)
ということで、ガス室問題はここ、ドイツのなので書くのも止めておくけど、死者の数に関してはばらつきがある。律儀にも(?)囚人に番号をつけ、管理していたドイツは、敗北の色が濃くなると収容所を破壊して、書類も隠滅しようとした。奇しくも残った資料や建物はあるけど、全てのことをそれらから知ることはできない。太平洋戦争から60年以上が経った。わからないことを追い求めていく、歴史家の仕事に魅力を感じていたけど、最近は、果たしてそんなことが解かるんかいな!?と。古楽を勉強しているけど、楽器から楽譜の復元はおそらくこうだった、と曖昧な部分が多い。はっきりとこうだ、と決め付けることができなくなっている。それはそれでいいののだろうけど、長い時間をかけての探求が必要となる。それに夢を感じなくなってきたというのは、自分が年をとったせいだろうか。いつも時間を気にして、自分から何かを調べてみようという気にならなくなっている。Wikipediaのページを読んで、それだけで知識を得た気になってる。そんな自分がちょっと嫌である。ならばこれから、ちょっと勉強量を増やしてみようかしら、と思うようなアウシュヴィッツ訪問でした。
Profile*プロフィール
HN:
Ganmo
性別:
非公開
職業:
学生 studentin
趣味:
読書、料理 lesen,Kochen
自己紹介:
ドイツに留学中の音大生。日記内は音楽のことよりも笑いのネタばっかり。勉強の為にドイツ語と日本語で日記書いてます。Seit schon lange bleibe ich in Deutschland,aber kann noch nicht gut Deutsch sprechen.Trotzdem versuche ich auf Deutsch zu schreiben.
Link*リンク
Kategorie*カテゴリー
Kommentar*最新CM
[03/14 Masahiro Kaneko]
[02/01 ゆんた]
[01/14 Amopashig]
[12/21 CruipCizDrorm]
[09/25 Ganmo]